自伝:コーナーは真っすぐ

都平健二が、自らの経験を語り遺した最初で最後の自伝。時代を駆け抜けたレーシング活動で何を考えていたのか。令和5年に蘇る記憶と思い出を書き綴る。

モトクロスに飛び込んで

 1941年、僕は茨城県水戸市の漁港に生まれた。太平洋戦争が勃発した年に生まれたので、幼いながらに戦時中の記憶は残っている。戦後の田舎には自動車なんて身近になかった。それでもモノづくりは何かと好きで、手先は器用なほうだったと思う。僕は学校を卒業してから上京し、ホンダのディーラーで仕事をすることになった。そこにはバイクが沢山あったのでバイクに乗ることが楽しみになる。仕事を覚えると、東京ナイトレーシングに加入してモトクロスの世界に飛び込んだ。でも、東京ナイトレーシングでの活動期間は短く、城北ライダースに移籍してからが僕の2輪時代のメインストーリーになる。1950年台半ば鈴木誠一さんと久保兄弟が結成した城北ライダースは、当時のモトクロス最強チームだったので僕は憧れた。僕が加入していた東京ナイトレーシングは城北ライダースと親交があったのでスンナリと移籍する事ができた。先輩達は面倒見が良く、走り込みの指導を通じてバイクの知識も叩き込まれた。戦後、陸軍飛行学校跡地を改修したアメリカ軍の水戸射爆撃場(現・国営ひたち海浜公園)でモトクロスをしたこともある。僕の記憶に残るモトクロスマシンはホンダCL72とスズキM40。多摩テックのヒルクライムを駆け上がり、伊豆半島の練習合宿で乗り回したのがCL72。城北ライダースはM40の車両開発も行なった。通常の6段ミッション、8段ミッションを5段に改造してレースをした。ここでは走る腕だけでは無くマシンの改良も学んだ。先輩に教わりながら自分達でメカニカルな部分に手を加える事は、のちに僕が大森ワークスに加入し、駆け出しの身で自らのマシンを創り上げることに繋がったと思う。そして、この頃に高橋国光さんが世界GPに参戦していることを雑誌で知った。しばらくして高橋国光さんが僕の目標となり、練習に励む力となった。まさか数年後の日本GPで備れの人と一緒にレースができるなんて、この時は夢にも思わなかった。

大森ワークスの扉

 僕は1964年にモーターサイクルクラプ連盟(MCFAJ)のチャンピオンになり、四輪にステップアップしようと考えた。そのタイミングに日産大森ワークスがレーシングドライバーを募集していると知り、城北ライダースのチームメイトだった長谷見(昌弘)くんとドライバー試験に挑んだ。ふたりは無事合格することができ、410型ブルーバードに乗り川口市営オートレース場でレースデビュー。残念ながら僕は後輪が脱輪してリタイアに終わってしまった。この時代の日産ワークスの先輩は、憧れの高橋国光さん、砂子義一さん、生沢徹さん、北野元さん、大石秀夫さん、横山達さんだった。憧れのレーサーとビッグマシンに早く近づきたくて田中健二郎さん指導の下、4輪の基礎を叩き込まれた。鈴鹿のヘアピンを模したコーナーを作り、田中健二郎さんが竹ほうきを振ってライン取りを教えてくれた。その甲斐あってか、鈴鹿2時間では田中健二郎さんのS54Bスカイラインを抑えて僕がブルーバードで優勝した。田中さんは僕の走りを褒めて喜んでくれた。レースで良い成績を残したこともあり、R381のテストにも加わることができた。翌1969年の日本グランプリにはR382で参戦するということになった。一緒に組むドライバーはモトクロス時代から憧れた高橋国光さん。ただし国さんがひとりでグランプリを走り切ることが前提であり、あくまで自分は補欠ドライバーという立場だったが、「憧れの人とレースができる!」という気持ちで胸が一杯になったと同時に言い表せない緊張感もあった。

日本GPへ向けて

 R382は凄く良く出来たマシンだったが、開発テストの走行では少々のトラブルもあった。でも50年経ったから時効だろう。僕が富士スピードウェイでテスト走行をしている時にアクセルペダルがフレームに接触し、戻らなくなって壁に衝突したことがあった。マシンは壊れたが僕は無傷同然だったから運が良かったと思う。大事に至らず首を痛めた程度の軽傷で済んだ。スカイラインの技術者、櫻井眞一郎さんが設計したと聞いていたので安全性に確証はあったけれど仕方がないね。レーサーはレーシングカーのトラブルを洗い出すのが仕事だから。ある時はR382の助手席に速度計測器を積んで走った。すると30度バンクの中盤で計器類が燃えはじめたことがあった。僕は焦ったが傾斜のあるバンク上では止まることもできず、そのまま走り続けるしかない。バンクを駆け下りた横山コーナーでマシンから飛び降りて脱出した。危機一髪OKというところだろうか。30度バンクを走る最中にステアリングが外れることもあったし、とにかくR382で30度バンクを走ることは恐怖だった。でも、仕事だから怖いとかいつまでも言ってはいられない。初めのうちは30度バンクの入り口で怖くなり、少しアクセルを戻す。慣れてきたらアクセル全開で突入する。時速300キロでバンクに進入し、バンクを下るときは時速320キロ。それでも段々と自分のスピード感覚が鈍り、時速320キロを怖いと思わなくなる。今になって考えれば時速100キロ出して走るのだって怖い。

R382の開発

 R382はオープン2シーターであり、ドライブしていると飛び石が顔に当たる。鉄砲玉のように飛んでくる小石は血が滲むほど痛い。これではレースが出来ないと、フルフェイスヘルメットを用意してもらった。白いヘルメットにドライバー識別のために青のビニールテープ3本を重ねてラインを作った。このお手製カラーリングのへルメットを使用していると月日が経つにつれて、ビニールテープが乾燥して縮んでいく。気づいたらブルー3本ラインのヘルメットになってしまった。これが僕のカラーリングの原型だ。これを見て「3本ラインは常にレースでは3位以内に入賞する事を意味している」と思えた。“偶然に生まれたこの単純なデザインが気に入り20年間、僕のレースに対するモチベーションを保った。僕は国さんとペアだったので、国さんが走りの指導をしてくれた。僕は練習走行で富士100Rの入り方に迷いがあった。そんな走りを眺めていた国さんは「トッペイ、100Rは真っすぐ入ったところでブレーキを踏んでみなさい」とアドバイスをくれた。この走り方を実践したら本当に速く走れた。日本のトップドライバーの国さんは新人の僕にも丁寧に的確なアドバイスをくれる優しい人だった。のちに鈴鹿12時間など耐久で国さんと組むときには鈴鹿サーキットのヘアピンでカウンターを当てながら走る方法を習得した。この走りは国さんと僕しかできなかった。昔はタイヤの性能が今ほど良くなかったのでカウンターを当てるコーナリンクが一番速かった。69年の日本クランプリ出場はトヨタと、タキレーシングが招聘したポルシェとローラ。なかでも一番、ライバル意識があったのはトヨタ。トヨタが富士スピードウェイを占有し車両テストを行なうと聞けば、長谷見くんと僕のふたりでトヨタ7のラップタイムを計りに行った。その頃僕と長谷見くんは日産ワークスの中で新人だったので潜入するのは僕たちの仕事だった。トヨタチームに見つからないように30度パンクの上からストップウォッチでこっそりとタイムを計る。それだけでなく、ライバルの走りを目近で観察することも刺激になった。でも真冬の観察は辛かった。寒い中で雪が降ってきたこともあった。もちろんコース上も真っ白だから、トヨタのテスト走行も中止。僕と長谷見くんも早々に撤収した。帰路では大雪で国道246号線が通行止めになり乙女峠を迂回して東京に帰ったこともあった。そうして、僕たちが観察したトヨタのタイムを技術者間で共有する。日産はトヨタに対抗してV12気筒GRXエンジンを開発していた。日産は当初、5L仕様でグランプリに申し込んでいたが、直前で6L仕様に変更してエントリーした。戦略的思考だよね。「ライバルには5Lに見せかけて、実際は6Lです」ということ。テスト走行をする段階で6Lを前提としていた。もちろん僕は5L仕様でテスト走行もしている。でも、5Lと6Lではパワーが全然違う。僕はR381のテストも行なっていたから、日産のレーシングエンジンが進化していくのが肌で感じられた。テスト走行でネックだったのはレーシングタイヤの価格だったと思う。R382はファイアストンを履いていた。海外から空輸していたから一本20万円 (現在だと80万円)、1セット80万円(当時)とかなり高額だったので「絶対にコースアウトするなよ」と念を入れられた。また、メカニックの彼らはV12のエキゾーストパイプのそれぞれ12ヶ所に濡れ雑巾の水を垂らしてマシンの状態を確認する。直ぐに蒸発すれば燃えている証拠になるからだ。ゼッケン23というのは「ニッ・サン」に準えて与えられたエースナンバー。今やスーパーGTにおいて、ニスモチームが23を使うことは定番だが、国さんと僕のR382が原点だ。当日は国さんが決勝のスタートドライバーを担当した。というのも、当初から国さんがひとりで走りきる予定だった。つまり僕は補欠ドライバーということだ。なので、心にも少しの余裕があり、砂子義一さんと一緒に土手の上からコースを眺めたりした。スタートして間もなく、国さんの23号車がイグニッショントラブルでピットイン。メカニックがトラブル解決に試みるも、多少の時間がかかるので優勝はできないだろうという判断に至り、それならば、エースナンバー23号車で今大会のベストラップを国さんが狙おうとなった。そのために国さんに少し休憩をしてもらう。その間は僕が代打で20周だけ走ることになった。マシントラブルは望ましくないが、代打で国さんのために決勝を走れたと思えば誇らしく思える。R382のドライブにはコツが必要で、走行中もチョークで燃料の濃さを調整しながら走った。20周を終えピットイン。国さんに交代し、いよいよ本格的なアタックが始まった。そして無事に国さんは1分46秒のベストラップを打ち立てた。結果23号車は10位になってしまったが、日産ワークスの一員として貢献できたと思う。何よりも、2輪時代から憧れていた国さんと一緒にレースができたことが嬉しい思い出だ。令和4年の3月に国さんがご逝去されたと聞いたときは胸がつぶれる思いになった。悲しみから言葉が出てこない。国さんとの日々を回想しながら感謝の気持ちでいっぱいになった。「国さん、ありがとうございました。僕も近いうちに天国に行くので一緒に会いましょう。沢山のことを教えていただきありがとうございました」と誓った。

1972年 富士GC300キロ

 この日は台風が富士に近づいていた。豪雨でコース上は水浸し。ピットから見て、ホームストレートがコース幅いっぱいに広がる大河。20周のレースが短縮されて12周で競うことになった。日産ワークスチームから高橋国光さんの15号車。僕の16号車の2台。プライベーターの久保田洋史くんの21号車が参戦。予選では1位から3位、5位から7位をスカイラインハードトップが占めた。スカイラインに割って予選4位に着いたのはカペラロータリーの寺田陽次郎さん。グリッドの最前列は国さん、僕、久保田くん、寺田さんの順番で並んだ。スタート直前になると暴風雨は強くなる一方。だが僕はウエットのレースが嫌いじゃない。それを知っているメカニックが「今日は、滅多にない大雨ですね。飛ばしちゃってください!」とハッパをかけるので、僕もその気になり「じゃあ、今日は勢いよく行くぞ!」と腕によりをかけた。スタート前のクリッドでは車に乗り込む際に暴風でドアが逆さに開き飛んで行った。いかに風が強いかお分かりになるだろう。風が強いという理由もあるが、ドアヒンジがアルミ製だったので強度が足りなかったという一因もある。ワークスマシンは、細かいパーツまで徹底して軽最化されていた。午後3時スタート。最前列なので前車の水飛沫で視界が辿られないだろうと思ったが、そんな事はない。単純に雨が強すぎて前が見えない。風圧でフロントカラスの下から上に水が流れていく。スタート前にドアが外れていたこともあり、隙間から吹き込む雨でフロアが水浸し。バシャバシャと冷たい水を分けながらアクセルを踏み続けた。大雨の30度バンクはいつも以上に怖かった。バンクの上から流れる滝を横切るようなイメージ。スタート直後から国さんを引き離して先頭を走ったのは僕だった。僕の次に続いたのは国さん、久保田くん。僕は快調に辿り続けて、たったの2周で3番手の久保田くん以下に周回差をつけた。

期違いで逃した優勝

 僕が速く走れた事には理由がある。僕はレース用のタイヤではなく、市販のラジアルタイヤを履いた。この時代のレース用ウエットタイヤというと、ファイアストン製の太いレーシングタイヤに溝を掘ったものしかなかった。僕は太いタイヤではなく細いタイヤのほうが大雨には適していると思い、そこで目を付けたのが、駐車場に止まっていた観客のフェアレディSRの履く鉄ホイールのタイヤだった。車のオーナーに頼み込んでタイヤを貸してもらった。鉄ホイールの重さよりも細さを重視したタイヤセレクトは大正解。ぶっちぎりで先頭を走れたよ。しかしレース中盤でコースアウトしてしまった。30度バンクでミラー越しにスカイラインが追って来るのが見えた。「国さんが真後ろまで迫っている!」と焦った。バックミラーを横目で見ていたらバンク下の横山コーナーでコースアウトしてしまった。泥沼と化した芝生から脱出ができずリタイア。ピットに戻ると青地康雄課長(特殊車両開発者)に怒られた。言い訳じゃないが「国さんが迫っていることに焦ってしまった。」と話したら、「あれは国さんではなく、周回遅れの久保田くんだ」と言われた。豪雨の中で水飛沫が凄くゼッケンが見えていなかった。周回遅れのマシンを勘遠いして焦り優勝を逃したことが惜しい。だが、記念すべき50勝目のレースを国さんが飾ってくれて良かった。

思い出のスパ

 僕にとって最初で最後のヨーロッパだった。海外レースはマカオグランプリやタイ・パタヤ、マレーシアグランプリなどアジア圏のレースには何度も参戦した。あとキャラミ9時間に国さんと組んで参戦した。ヨーロッパはアジアとは違った風土に魅せられ最後の国際レースだったこともあり思い出深い。一緒に組んだドライバーは木下隆之くんとディーク・ショイスマンさん。木下くんとは国内JTCシリーズにヂーゼル機器スカイラインでペアを組み、90年のN1耐久はニスモチームのヂーゼル機器スカイラインでペアを組んでいた。ショイスマンさんはヨーロッパ現地のワークスドライバー。彼はスパ・フランコルシャンの経験も豊富で頼もしかった。ニスモがスパ24時間レースに参戦することになり、このタイミングでヂーセル機器は社名変更し、ZEXELとなった。僕はヂーセル機器の頃を合わせると、長らくZEXELにはお世話になった。JTCのDR30スカイラインから始まり、JGTCのR3スカイラインに乗り、引退するまでZEXELと共に歩んだレース人生だった。またこのタイミングで音響機器メーカーのBOSEがパーソナルスポンサーについてくれた。後に、僕がNI耐久に参戦する時にはメインスポンサーになってくれた。まずベルギーに到着してから木下くんと車でスパへ向かった。途中で道を間違えてしまってね。僕は英語もフランス語も読めないから道路標識と地図に何と書いてあるのか分からない。だから感覚的に車を走らせていた。未踏の地、ヨーロッパだというのにね。そして気づけば現在地がオランダだってさ。ふたりで急いで道を折り返し、やっとのことでスパ・フランコルシャンに到着。このコースは一般道を用いており、レースウィーク前にメカニックとコースの下見をした。長いストレートもあるし、タフなコーナーや下り坂もあり整った市街地コースだなという印象を持った。やはり、FIも開催されていると聞いていただけあり、期待通りのサーキットだ。コース脇にバス停があるのも面白かった。僕はマカオを始めとした市街地レースには何度か参戦していたので自信が持てた。このレースにニスモチームは日置和夫監督のもと、2台のグループNスカイラインを送り、R32初の海外遠征となった。国内NI耐久ではグループN規定のスカイラインをドライブしていたので手ごたえは感じていた。まず、マシンが現地に到着してべルギー日産のガレージに運んでメンテナンス作業をした。メカニックは微夜で作業していたが、ベルギー日産の社員は定時になるとキッパリと帰ってしまう。ヨーロッパの人は定時に帰ることが当たり前だった。予選を担当したのは僕。意気込んでオールージュに全開で突入したらスピンしてしまった。「曲がりくねった急坂」ということは理解していたが、アクセル全開で登れると思った。オールージュの出口で一回転、カードレールに衝突することなく綺麗にスピンした。ピットに戻ってから日置さんに「もう一度、アタックさせて欲しい」と伝えたところ「トッペイちゃん、もう良いタイムは出ているから十分だ」と言われ、予選は終了した。もしかしたら、日置さんは「トッペイがもう一度、本気でアタックして決勝前にマシンを壊したら困る」と思ったかもしれない。予選結果はヨーロッパの現地チーム・ヤンスピードのスカイラインがトップ。2位が僕の56号車。3位は福山・服部組の55号車。もし僕がもう一度アタックできたらヤンスピードよりも速いタイムを出せたかもしれないと思う。ニスモチームの2台には役割が決められていた。僕の56号車はアタック、アタック、アクセル全明で勝利を目指す。55号車は安定した走りで入賞を目指すというものだ。決勝のスタートドライバーは僕だった。スタートは快晴だったけれども、出来れば雨が降って欲しかった。GT-Rは新システムのアテーサETSを搭載した四輪駆動だから、ウエットコンディションで速く走れると分かっていた。でも結局24時間のレース中で雨が降らなかったので残念だった。GT-Rでレースをする上で最大の難点はブレーキが弱いこと。初期のGT-Rはプレーキ性能が低く、24時間を走りきるためにはブレーキパッドを頻繁に交換しなければならなかった。この弱点は国内N1耐久で分かっていたので、サーキットに貨物パレット1個分ブレーキ関係パーツを持ち込んでいた。レースは順調に進んだ。真夜中にオールージュ下で死亡事故が発生し、赤旗中断になったが、それでもレースは続行された。これは日本では考えられないことだと思った。夜が明け順調に走り続けたが、残り数時間でマシントラブルが発生。ショイスマンがピットイン。どうやらトランスファーからオイルが噴出している。通常ならばリタイアか、復旧作業に時間がとられるところだが、上位を走っていて、残り1時間ということもあり応急措置で済ませた。「トッペイちゃん、完走を目指して走ってくれ」という日置監督の言葉を胸に残り時間は僕が走ることになった。車内は吹き出たオイルでベトベト。白いZEXELのレーシングスーツがオイルで黒く染まった。ピットを出た時点で優勝を逃したことは分かりきっていた。それでも意地と根性で1秒でも速く走った。最後は日産チームの3台で並んでゴールイン、無事完走することができた。マシントラブルもあり3位になってしまったが、それでも悔いはない。海外のレースとなれば現地の食事も楽しみ。でもベルギーの主食はジャガイモ。毎日、毎日、ジャガイモ生活で嫌になった。しかし、スパ24時間レース中の休息タイムにコース内のイートインスペースで食べたホットドックが美味しかった。昼食で感激して、夕食も同じホットドックを食べた。旨味たっぷりのソーセージを思い出す。

その後のレース人生

 僕はスパ遠征から帰国後も、引き続き木下くんとNI耐久に参戦した。しかしなかなか勝つことができなかった。走行中に油圧が下がる問題をメカニックに伝えても改善されなかったり、ドライバーとしての車にする要求をチームに聞いてもらえなかったり嫌になった。そして92年にニスモを脱退、NI耐久には、僕の個人チーム・LIMITから参戦することを決意した。そうしてニスモから90年スパのZEXELスカイラインを購入し手直しした。オイルパンも改良し、油圧低下の問題をニスモチームより早く解決することができた。チームメイトにはJSSシリーズで頭角を見せていた河合くんを迎え、92年シーズン半ばから参戦を開始。初年度こそ成績が振るわなかったが、93年からはニスモチームと戦えるレベルに透し、94年には53歳にして人生最後ののシリーズチャンビオンを獲得できた。新型R33GT-RのデビューレースをR32で阻止してしまったこともあった。十勝24時間レースではJGTCマシンと混走し3位に入賞。長谷見くんが優勝。国さんが2位。僕が3位。3人で同時に表彰台に立つことは日産ワークス時代以来ということもあり、どこか懐かしく誇らしく思えた。

都平健二

1941年茨城出身。2輪レースを経て日産ワークス入り。70年代中盤からフォーミュラや富士グランチャンなどにも出場。その後も耐久レース、ツーリングカーレースに出場。1994年N1耐久レースシリーズでチャンピオンに。2024年逝去。写真は2022年のRacing on誌の取材にて大西カメラマン撮影。

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